1.蔵王町は静かな農村ではなかった!?

蔵王山や蔵王町の歴史を紐解いてみてわかったことは、蔵王山の裾野のあたりは、平安の時代から栄えていた交通や商業の要所だったらしいということです。
そもそも、蔵王町の名称になる以前は「市村」という名称で、その名の通り「市」が開かれて栄えていたことの名残です。

では、なぜ子供のころから、ずっと蔵王山という里山のふもとに広がるのんびりした農村だとしか思えないようなエリアになっているのか、商業が栄えていたらしい時代からみれば、「寂れた」ということなのでしょうが、ずっと静かに暮らせてこれた自分たちにとってはもともとこういう場所だったとしか感じないので何とも思わなかったのですが、その理由を探ってみました。

その秘密は、どうやら、いまのこの蔵王町の地形に秘密があったらしいのです。
もし、この地形が今と違って昔のまままだったら、蔵王が「鞆の浦」のように「蔵王の浦」みたいになっていたかも?
ちょっとしたNHKの「ブラタモリ」みたいな感じですね。

こちらは「鞆の浦」の写真

2.「深津」と蔵王町の地形と歴史

市があったから「市村」というのと同じく、「深津」という地名も「深い津」であったという地形が関係しています。

福山市の深津(ふかつ)地域と蔵王町は、現在では住宅地や田畑が広がる静かな地域となっていますが、その地形と歴史には、かつてのにぎわいや大きな変化の痕跡があったと考えられています。

■ 深津の地形と古代の姿

深津一帯は、かつて芦田川流域の湿地帯に位置していたと推測されています。
現在の福山駅から東にかけての一帯は、古代には「深津郷(ふかつのごう)」と呼ばれ、芦田川の支流や入り江が入り組んだ低湿地であったと伝えられています。
この湿地の中に、小高い丘陵が点在し、その代表的なものが蔵王山(標高226m)であったとみられています。
蔵王山は、かつて「深津島山(ふかつしまやま)」と呼ばれ、湿地に浮かぶ島のような存在だったともいわれています。

蔵王山には万葉歌碑(柿本人麻呂歌集)がありますが、当時の蔵王山からの景色は、上にある鞆の浦の写真のような海辺の景色ではないものの、水辺に船が行きかうような、風光明媚な景色が広がっていたのかもです。
有名な万葉歌人が歌を詠みたくなるのですから…(勝手な憶測ですが)

このように、古代から中世にかけて、深津はこうした地形を利用して農耕が営まれ、あわせて小規模な船着き場が存在した可能性も考えられています。
芦田川やその支流を利用した水運により、物資や人の移動が行われていたと考えられ、周辺地域との交流があったとも推測されています。

■深津の商業的繁栄と江戸時代の変化

中世から近世初期にかけて、深津は自然の港を生かしてある程度のにぎわいを見せていたと考えられます。
しかし、江戸時代に入ると状況は大きく変化したようです。

福山藩(特に水野勝成期以降)では、領内の農業生産力を高めるため、芦田川の流路変更や大規模な干拓・埋立事業が推進されたようですが、この過程で深津周辺の湿地や入り江は陸地化され、船の発着が困難になったという説があります。
このため、深津は水運拠点としての役割を失い、商業の要所としての性格も薄れた結果、農村地帯へと変わっていったのでは、というのですが、この変化は、福山城下町の整備と周辺地域の農地化政策の一環であったともいわれています。

■蔵王町と深津の歴史的関係

深津地域に含まれていた蔵王山周辺も、こうした地形と歴史の推移を共有してきたと考えられます。

蔵王山は、もともと深津郷の一部とされ、地域の信仰の対象だったと伝えられています。
山頂またはその付近には、かつて医王寺(いおうじ)が存在していたともいわれますが、蔵王山中腹には現在も八大龍王社(高麗神社)が祀られており、古くから干ばつの際には雨乞いの祈願が行われたと伝えられています。

こうした信仰の場は、農村化が進む中でも地域に受け継がれていったとみられます。

■まとめ~「鞆の浦」ならぬ「蔵王の浦」になっていたかも

このように、今日の福山市深津や蔵王町の静かな風景は、古代の湿地と島山、水運の賑わい、江戸時代の干拓事業による地形改変という、長い時間をかけた変遷の上に成り立っていると推測されます。
かつて小舟が行き交い、人々が集ったとされる賑わいが、埋め立てられることなく元の地形のままで城下町や寺町のように商業的にも発展していたら、「鞆の浦」と同じように「蔵王の浦」と呼ばれていたかもしれないと空想した次第です。

昔は鞆の浦のような水辺や船のある風景だったのかも!?

コメントは受け付けていません。